登山家 竹内洋岳

「至極当然の判断」―これほど難しいことはないのが登山


 チベットと中国の国境にそびえる白きヒマラヤの頂、チョ・オユーへ。竹内洋岳さんは、2度目の挑戦をした。「帰国の日付は決めていません。登れるまで粘ってきます」という意気ごみで日本を発ったのが8月中旬のこと。そして9月30日、登頂。広い広い大雪原をなす山頂からは、かつて登ったエベレストもローツェも、その姿をはっきりと臨むことができた。


― 念願の登頂でしたね。
チョー・オユー
撮影 中島ケンロウ
 2年越しでしたが、その分2倍楽しめたように思います。
 しかし、登頂後の下山は本当に大変でした。頂上プラトー(大雪原)の降り口でルートを誤ってしまったのでしょうね。違う方向へ下りてしまいました。先を行った中島さんが降りていく姿は確認していたのですが、それがそもそも違っているのではないかと思い、念のためにルートを探しながらプラトーの縁を歩いて行ったのです。ここだと思う地点で下降を始めたのですが、結果的に間違っていました。
 いよいよこれは違うとわかった時点で、衛星電話で中島さんに連絡すると、彼は既にキャンプ2に戻っていました。「トラバースをして尾根を越えれば、正規ルートに戻れるではないか」と彼は電話越しで言っていました。希望的観測ですよね。心は揺れ動きました。登頂後の下降ですから、すでに体力は使い果たしています。今から登り返すなんて、考えられないほどです。体力的に楽なトラバースに大きく心が傾きました。しかし、トラバースはリスクが高すぎます。雪崩にあうかもしれないし、第一に正しいルートに出られるかどうかなんてわかりません。意を決して、登り返しました。しかしそれは、8000m峰を2度登るようなものでした。
 とても苦しかったし、すでに日は暮れていたけれど、プラトーまで登り返しました。ここかなと思われる地点から再び下降を開始しましたが、なかなか確信が持てなかったですね。この日に登頂したのは我々2人だけですから、周囲には誰もいませんし、夜で視界も限られます。しかし、テルモスのなかの水は十分に残っていたし、食糧もジェルが3本ほどありました。ヘッドトーチのバッテリーは朝に取り換えたばかりだったし、衛星電話の予備電池もありました。ですから“追い込まれた”という感はなく、途中でビバークをしながらでも、動き続ければ、十分に戻れるだろうと考えていました。けれど、ビバークに入る前に、もう一度周囲を観察しようと歩いてみると、たしかにルートを見つけることができたのです。それでビバークは止めて、下降を続けました。


― 登り返すという決断は、ヒマラヤの高所ではなかなかできないことではないでしょうか。
 呼吸を整えるのに立ち止まっている時間の方が、登っている時間より長いような状態ですから、確かにそうかもしれません。しかし、登り返すという判断は、特別なことではないですよね。登山中にルートを間違えた場合、現在地点がわかるところまで戻るというのは、原則です。やらなければならないことをやっただけです。
チョー・オユー
撮影 中島ケンロウ
しかし、登山では往々にしてその“やらなければならないこと”をやるのが、難しいのです。
 キャンプ2に戻ったのは、明け方です。テルモスの中味は既に凍っていましたね(笑)。かれこれ、30時間位動き続けていたことになります。それから3時間ほど休んで、すぐにキャンプ2を撤収し、下山を開始しました。なにがなんでも、その日のうちにベースキャンプまで降りるつもりでした。C1を撤収して、重い荷物と疲労でフラフラとベースキャンプに戻ったのは夜中の11時過ぎでした。マル2日間動き続けていたようなものです。


― 来年は14座目のダウラギリですね。
 春に登ります。いまの予定ではクーンブ山域で高所順応したあと、カトマンズで休養し、その後ヘリコプターでベースキャンプに入ります。そのまま“ピン・パン・ポン”で登ります。日本語では“ピン・ポン・パン”ですね。シングルプッシュは難しいけれど、現地で1回高所順応をしたあとは、すぐにサミットプッシュをするという意味です。
チョー・オユー
撮影 中島ケンロウ
 私の8000m峰14座の登山は、“おみこし”のようなものだと思っています。おみこしは大勢で「わっしょい、わっしょい」と担ぎますよね。みんなで楽しく担ぎますが、「おみこしの中には一体何が入っているのか?」って誰もあまり考えませんね。いまでも何が入っているのか、私自身確かめたことはありません。けれど、みんなで盛り上がるのです。私は子供のころからお祭りが身近にあって、大好きだったんです。
 14座の登山も同様です。私を知っている人も知らない人も、これまでも支援・協力してくださった人も、ヒマラヤなんて無縁な人も、「なんだか応援したら、面白かったな」と思ってもらえるような登山にしたいです。その最後のピークが、ダウラギリになります。


― そして、14座のその先こそが、竹内さんの登山が面白くなるのではないでしょうか。
 これまでも述べてきましたが、14座が私の登山のすべてでなければ、もちろん人生のすべてでもありません。8000m峰14座というのは、世界にあまたある山々のごくごく一部です。登りたい山はまだまだたくさんありますし、もう一度登りたい山もあります。
 さらに私は、登山がスポーツとして、文化として日本に根付き発展していってもらいたいと考えています。今こそ登山が、ほかのスポーツや文化と同じ土壌で発展していくかどうかの分岐点だと思っています。
チョー・オユー
撮影 中島ケンロウ
登山がスポーツや文化として成り立つためには、プロフェッショナルの存在が重要です。プロの登山家だけでなく、登山に関わるあらゆるプロフェッショナル、たとえばジャーナリスト、写真家などが、これから、ひとりでも多く誕生し、彼らが活動していくことが登山を洗練し、発展させていくキーとなると考えています。
 また、プロの登山家としての、私の登山の内容が精査され忠実な記録として残されることも重要です。登山の記録が厳密に残され、それが多くの人に見られることで、登る側も、見る側も登山への意識が高まることこそが、登山が個人の経験にとどまらず、社会のなかで評価されていくことになると思います。
 私の登山への取り組みが、登山という枠組みにとどまらず、登山をしない人たちにも楽しんでもらい、お互いに何らかのインスピレーションを与え合えるようになりたいですね。


 ネパールから帰国して約1ヶ月経った頃、都内で竹内洋岳さんに会った。いつもと変わらず飄々としていた。チョ・オユーというと、“8000m峰の登竜門”とか“一番易しい8000m峰”などと言われる。けれどそれは、チョ・オユーに登頂する多くの日本人が酸素ボンベを使っているからではないだろうか。無酸素で登頂する8000m峰は、どれも相応の難しさがあり、K2以降それをやり続けてきた竹内さんは、やはり真の実力者である。その証拠が、こうやって今回も正しい判断をして、無事降りてきたということだ。
 そして、彼が登山を語るとき、おのれの登山はもはや自分自身だけのものだけでなく、社会全体のなかでどのような位置にあり、自分は何をできるのか、今後登山はどのように発展していくのか、というところに彼の視線はある。それこそが、竹内さんがプロの登山家であるあかしだ。
 14座目のダウラギリは、“ピン・パン・ポン”で登るという。ダウラギリノーマルルートの下部は、落石や雪崩など厭らしいパートが多い。ほかの山域で高所順応することにより、そういったリスクは最小限に抑え合理的に登ろうとする、竹内さんらしい選択だ。  2012年春、竹内さんがどんな登山を私たちに見せてくれるのか、私たちはそこから何を感じることができるのか、いまから楽しみだ。
 

(取材+文=柏 澄子)

※ 前回のチョー・オユー挑戦のインタビューはこちら



竹内洋岳(たけうち・ひろたか)
竹内洋岳氏1登山家。1971年、東京都生まれ、東京都在住(妻+2人息子と暮らす)。ICI石井スポーツ所属。登山好きの祖父の影響を受け、幼少時より山に親しむ。高校山岳部で登山を覚え、8年間通った大学でも山岳部に籍を置き、国内外の多くの山々に登る。91年、21歳のときに初めてヒマラヤ登山を経験する。95年、未踏のマカルー東稜下部からの登頂に成功。96年にはエベレスト、K2連続登頂。転機は2001年のナンガ・パルバット。以来、シンプルな装備と小人数でスピードアップをはかりいっきに頂上に登るスタイルを実践している。今年9月にチョ・オユー(8201m)を登頂し、8000m峰14座完登をかけて、2012年にダウラギリ(8167m)を目指す。